2007年 8月

07/08/15(水) 戦争体験を語り継ぐ
 昨夜のことである。私宛に市民の方から以下のメールが届いた。それを読んで、戦争体験を語り継ぐことの大切さを改めて感じたので、送信者の許可を得てここに転載する。


昭和二十年八月十四日
 昭和二十年八月十四日の夜、私は蔵王の中腹で熊笹の原野を開墾し蕎麦の種を撒くために村の集会所に泊り込んで働いておりました。中学二年生だった私たちは夏休みも無く、飛行場つくり、農家への手伝いそして今回の開墾作業でした。子供心にも戦局は我が国に利あらずと思っておりました。

 その夜の午後九時過ぎ、もう休もうと思っていたところ、突然頭上で物凄い爆音が聞えたのです。慌てて外に出て夜空を見上げると、B29の大編隊が蔵王の上空北へ向かって飛んでいるのを見たのです。雲ひとつ無い夜空にその機影は実に美しいものに見えました。当時山形市に住んでおりましたので、みんなで「山形がやられるな」と呟いておりました。家には両親と弟妹とが住んでおりました。県庁の真裏でしたので、当然焼夷弾の洗礼をうけるだろうと、不安は隠せませんでした。戦後知ったのですが、その夜は秋田市が油田とともに爆撃をうけたのでした。やはりこれも戦後知ったのですが、明くる十五日に山形市が候補地に上がっていたと聞いて運命的なものをかんじました、

 十五日は何時ものように、作業に出かけようと現場に向かっていたところへ伝令が飛んできて、「今日の正午に玉音放送があるので、それまでに下の硫黄鉱山事務所の広場に集まるよう」との連絡がはいりました。我々の友人の殆どは「戦局は我に不利だが、全国民一致協力して頑張れ」との天皇のお言葉とかいしゃくしておりました。ところがたった一人だけ「日本が負けたんだ」と呟いたのがいたのです。当然、みんなの非難を浴び、殴りかかる者もいました。しかし、広島に新型爆弾が落ちた日からただならぬものを感じていた事は確かでした。

 正十二時、「君が代」の後、スピーカーから天皇陛下の声が流れた。「朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み非常の措置を以って時局を収拾せむと欲し茲に忠良なる汝臣民に告ぐ」生まれて初めて聞く天皇陛下の生の声である。ただ何を仰っているのか皆目理解出来なかった。我々が整列してる前に居並ぶ先生達が、こぶしで涙を拭いているのを見たとき子供心にもただならぬものを感じ始めていた。やがて玉音放送が終わった。

 壇上に上がった教頭が口を開いた。「我が国はポツダム宣言を受諾した。日本は戦争に負けた」この声を聞いた途端に、鉱山の事務所前の広場に一斉に慟哭した、全員が泣いた。日本の敗戦を口にした友人は声を上げて泣いていた。
日本が戦争に負けたと言う歴史的な時間を暫くの間、泣いて過ごした。

 開墾の仕事は中止して、即刻家路についた。家族と無事を確認して、もう一度泣いた。初めて味わう屈辱的な敗戦と思っても、目標の無くなった私は一体これからどうなるだろうと心配だった。そんな時、色んな流言蜚語が流れた。「男の子はアメリカへ連れて行かれて奴隷になる」と言う話が一番真実味を帯びていた。

 十月になると進駐軍が、カービン銃を肩に、ジープに乗ってやってきた。その姿を見た時、日本が負けた理由が納得した。

 あれから六十年余、戦争を語れる世代がどんどん減ってきている。「硫黄島」を「イオウジマ」と呼ぶ時代である。我々世代は絶対に「イオウジマ」とは呼ばない。あの呼び方は、米軍が闘いに勝った時からそう呼んできた。歴史的には「いおうとう」なのである。そうした依怙地が「硫黄島戦」を描いた映画を見るのを拒否した。

 日本人が世界に向かって核の反対を言い続け、戦争の虚しさを訴え続けるべきだと思う。

 私の両親は戦争では死ななかったが、戦後の苦労が原因で相次いで逝った。両親の五十回忌も既に済ました。これがせめてもの親孝行だと思っている。

わだつみの声が聞える夏の海  
八月十四日記


 当時中学生だったこの方の思いが伝わってくる。戦争は「日本人」というひとかたまりの集団の行為でもあるが、一人一人の個にとっても、決して忘れられない重い出来事であることがよく分かる。戦争を全体としてみることも大切だが、個を通して見ることも大事だと思った。そして戦争を知らない世代に語り継ぐことの重要性を改めて教えてもらった気がする。