![]()
1月
01/27(火) 岸和田の虐待事件
一昨日発覚した岸和田の中学生虐待事件はあまりにも惨く、人間はここまで残虐になれるのかと、言葉もない。中学生が寝ていたシートには体液が流れ出ていたという。こんなになるまで逃げ出せなかったとは・・・・。同じマンションの住人も中学校でも虐待の兆候はつかんでいたというのに誰一人助けられなかった。この食べ物の豊富な日本で、飢餓で瀕死の状態になるなんて。
岸和田子ども家庭センターの所長がテレビで「通報と考えればよかったですね」というような意味のことを言っていた。中学校から相談があったときのことだ。その時所長は全く無表情に話していた。まるで自分達には何の責任も感じていないかのように聞こえた。虐待の通報なら強制的に家庭に入ることが出来るのだが、センターはそれをしなかった。簡単に考えていたとしか思えない。そのテレビで、所長はひとことも謝罪の言葉を口にしなかった。「私達がもっと早く気づいて強制的に家庭に入っていればよかったのに、本当に申し訳ないことをした」ぐらい言ってしかるべきではないのかと腹立たしかった。虐待された子供の見方であるべきセンターがこのような態度では子供たちは救われない。
今日のニュースで被害者の在籍している中学校で生徒と教職員が千羽鶴を作り回復を祈っているという。昨日だったと思うが、テレビ番組で同級生達が虐待の事実を知っていたと語っていた。お腹にあざがあったなどと知っていたのだ。そのことを先生に話さなかったのだろうか。千羽鶴も悪いとは思わないが、その前に虐待から友人を救う手立てを考えなかったのだろうか。また、やせて顔色も悪くなっていたという被害者を見ていた教師達は虐待に気づいていたのではないのか。虐待をした両親の取調べは勿論だが、学校や児童相談所の対応についても厳しい検証がなされなければならないと思う。
01/25(日) ピアノの発表会
週に二回ほど一緒に勉強している中学生のピアノの発表会があって聴きに行く。場所は龍ヶ崎文化会館の小ホール。ひとつの教室の生徒さんだけなので、とても家庭的であたたかい雰囲気の発表会だった。幼稚園児から大人の人まで一生懸命に自分の練習成果を披露している。私と勉強している中学生はトリをつとめていた。先生との連弾で弾い女子十二楽坊の「自由」は、とってもステキだった。
01/22(木) 犬の散歩
去年の夏に子犬をもらってからほぼ毎日犬と散歩をしている。時間がある限りは午前と午後の二回、家の近くの田んぼ道をそれぞれ40分ぐらいずつ歩く。はじめの頃は私が引っ張ったりしながら歩いたのだが、最近は殆ど引っ張られている。きちんとしつけをして、人間主導で歩けるようにしようと思ったのだが、なかなかうまくいかず、現在は引っ張られる状態だ。だが、「信号のところで止まり、お座りをして待つ」というのはきちんと出来るようになった。これは100%といっていいほどで、まず失敗することはない。
毎回の散歩では、歩き出すときが大変だ。喜んで飛びつくからだ。このごろは大分大きくなったので、私の肩ぐらいまで飛びついてくる。じゃれついて綱を噛むし、時には私の手にも噛み付いてくる。もちろん本気ではないのだが、それでも時として力あまって痛いほど噛む。なんとか飛びつかないようにしようと思って叱るのだが、どうも私を馬鹿にしているらしく、なかなか言うことをきかない。なめられていると分かっているのだが、きつく叩くこともできないので、なかなか思うようにならないのだ。夫が叱ると地にはいつくばって言うことをきく。あっちのほうが怖いらしい。
犬の散歩を始めてから血圧が安定してきた。なかなか下がらなかった最低血圧がこのごろは正常の範囲に収まっている。お犬サマサマだ。歩くということはやっぱり体にいいのだと実感している。
01/16(金) 夢
今朝方だろうと思うのだが、久しぶりに夢を見た。その夢はかつての教え子たちの夢だった。教え子の夢をみたのは始めてなのだが、何かの会場で大勢の教え子たちと話しているのだ。その子たちは高校3年生だと言う。みんな大学受験や就職を控えているというのだ。それなのに、おかしなことにみんな小学生の顔をしている。「あんまり変わっていないね。」などと私は言いながら一緒に食事をしているのだ。「あの子たちは現在40歳ぐらいになっているはずなのだが」と夢の中で思っている。夢と現実がどこかで混じっているらしい。40歳ぐらいだと思いながら、小学生の顔の高校3年生と話しているのだ。何を話していたのかは殆ど覚えていない。夢と言うものは本当に変なものだ。それでも目覚めてからなんとなくあったかい気分だった。子どもたちが私の心の中に訪ねてきてくれたからだろうか・・・・。
01/10(土) 息子からの便り
どうしたことか、今年は色々な人から久しぶりの便りが届く。昨日はアメリカの息子(高校時代に我が家に1年間ホームステイしていた子)から一年ぶりぐらいで便りが届いた。彼は今31歳でハワイ大学の大学院で人類学を学んでいると言う。昨年の秋に台湾の女性と結婚し、今は二人でホノルルに暮らしている。結婚式の写真を何枚か同封してきた。彼の名はロビン、奥さんの名はグァン・フェイ・リン。彼は大学院が忙しくて仕事はしていない。31歳にもなって自立できないと書いてきた。妻と両親から援助されているのが心苦しいらしかった。彼の日本語は非常に素晴らしく、書いてくる手紙は我が家の息子にもかけないほどのものである。便箋4ページにびっしりと近況や、近頃の心境などをつづってきた。奥さんが中国語のガイドの仕事をみつけ、それで生活を支えているのだが、日本語のガイドもできるようになりたいと今は日本語を学んでいるそうだ。彼女はロビンに「家では日本語だけで話して」というそうだ。そうして日本語を覚えようとしている。アメリカ人と台湾人の夫婦が日本語で話している風景はどんなものだろうか、想像するのも楽しい。
懐かしくなって電話をすることにした。番号はKDDで調べてもらったらすぐに分かった。ハワイは夜の11時ごろだ。ちょっと遅いかなとも思ったがまだ起きているだろうと電話をする。ロビンが出た。「ああ、おかあさん!」ととても喜んでくれた。しばらくおしゃべりをする。結婚式に呼べなくてすまなかったとさかんに謝る。今年台湾で結婚式をするかもしれないのでそのときは私たちにも来てほしいと言っていた。彼は中国語もぺらぺらだそうだ。奥さんにも挨拶しようと思ったが、日本語がまだ上手じゃないので恥ずかしいといって電話口に出てくれなかった。写真で見るととても理知的な感じのする女性だ。
オーストラリアのギャビンも、アメリカのロビンも30歳を過ぎてまだ学生をやっている。自分のやりたいことを求めて努力しているのが素晴らしい。ギャビンは医者、ロビンは人類学者になろうとしている。ところで、我が家の二人の息子たちは・・・・と、ついつい比べてしまう。彼らも夢は持っているらしいのだが。
とにかく、今年のお正月は懐かしい便りが続いた。あちこちから便りが来るのはとても嬉しいものだ。
01/08(木) 30年ぶりの声
夕べ、5日の「ひとりごと」に書いたインドのBiswasさんと約30年ぶりに電話で話した。
私 「Is Syudamoi there?]
B 「Who is talking?」
私「This is Mariko.」
B「ああ、眞理子さん、元気ですか?」
私「あれ、ビスワスさんなの?」
B「そうですよ。久しぶりですねぇ。」
私「ほんとに。でも、どうしてそんなに日本語が話せるの?あれから日本に来たことあります?」
B「近くにインドにお嫁さんに来た日本人のサロンがあって、たまにそこで日本語で話すけど、あれから日本には行っていないよ。フィリピンやタイへは稲の研究や指導で行ったけど、日本はいろいろ高くて行けないよ。眞理子さんカルカッタに来ない?」
と言う具合で、日本語がぺらぺらで驚いた。30年以上も殆ど使っていない日本語がスラスラ飛び出してくる。あれは頭の中で翻訳しているのでなく、日本語で考えてしゃべっているのだと思う。私の早いおしゃべりも完全に理解して話してくるのだ。「恐れ入りました」という以外ない。さすが金メダルの秀才だと思った。たまたま外から息子が帰ってきたので、代わってみる。息子もあまりの日本語に驚嘆していた。「はじめまして、息子の研です。ハイ、録音技術者の仕事を探しているんですけど・・・」という具合だ。「ビスワスさん、何て言ってた?」と聞くと「頑張れば大丈夫だよと言ってくれたよ。」とのこと。
Biswasさんは大学教授をリタイアして、今はロータリークラブのプレジデントをしていると言っていた。彼は稲の育種学の専門だった。東大の大学院をオール「優」という成績で卒業し、学位をとって帰ったのだ。それからカルカッタ大学で教鞭をとっていた。我が家では「Biswasさんがノーベル賞でも取ったらすごいね」と言っていたが、ノーベル賞とはいかなかったようだ。でも、きっと優れた研究成果を挙げたに違いない。
当時一緒に我が家に遊びに来ていたネパールの留学生の消息を聞いたが、彼も連絡を取り合っていないと言うことで、この人のことは分からなかった。電話を切ってから「インドへ行きたいね」と息子と話す。インドはヨーロッパよりカルチャーショックがあるかもしれない。彼の家に泊めてもらえば安く行けるし、考えようかなと思っている。
01/06(火) VOTE取手プロジェクト
今月18日告示、25日投票で取手市議会議員選挙が行われる。新人の立候補が多いと聞く。この市議会議員選挙に関して市民の関心を高め、良識に基づいて判断できるようにと開設されたHPがある。それが「VOTE取手2004」である。各地でこのような取り組みは行われているようだが、隣接の取手市でも行われることに敬意を表したい。政党にも候補者個人にも偏ることなく、立候補予定者説明会に参加した人にアンケートを送り、その結果を公表しているのだ。こうした情報が今まであまりにも不足していた。選管の作る選挙公報は選挙の告示後にしか送られてこないし、公報に掲載されることはほんの少しなので、候補者の人柄や考えを知るには限界がある。このHPに掲載されたアンケートは次のようなもので、候補者の自由記入方式となっているので、人柄が表れやすいように思った。
立候補予定者へのアンケート
アンケートの内容は今後さらに検討を加える余地もあるかと思うが、とにかくこのような趣旨のHPが出来たことはすばらしい。できるだけ多くの方にアクセスしてもらいたいものだ。特にHPでの宣伝は若い人たちの選挙への関心を高めるのに役立つだろう。今後さらに充実されることを期待したい。
- あなたは何故、市会議員に立候補するのですか?
- あなたが市会議員になったら、市民にどんなメリット・影響がありますか?
- あなたが市会議員になったら、何を市民に期待しますか?
- あなたは4年前の選挙でなにをアピールしましたか?(現職のみ)
- この4年間の議員活動を自己採点で何点(100点満点)をつけますか?
理由もあわせてご回答ください。(現職のみ)- あなたは現在の市議会に何点(100点満点)をつけますか?
理由もあわせてご回答ください。(新人のみ)- そのほか市民に伝えたいことをご自由にお書きください。
01/05(月) タイムマシンのような手紙
新年になってから来客などで更新が遅れてしまった。新年の挨拶や抱負など書くべきことはたくさんあったのだが・・・・。
今日、ずうっと交信の途絶えていたインドの留学生から30数年ぶりに年賀状が届いた。名前はシュダモイ・ビスワスと言って、40年ぐらい前に東大の大学院に留学していた人だ。亡くなった私の母が「日本のおかあさん」として接していたので、私にとっては兄のような存在だった。帰国してしばらくしてカルカッタ大学の教授になったのだが、母がなくなってからは交信が途絶えていた。その彼からの、本当に久しぶりの年賀状・・・・。英語の文面に添えて「しんねんおめでとうございます ビスワス」と日本語で書いてあった。まだ、ひらがなを覚えていたのだとビックリした。彼は何年かに一度の秀才と言うことで、金メダルをもらってカルカッタ大学を主席で卒業した。それほどの秀才だから、今でもひらがなを忘れないのかもしれない。
懐かしさで、そこに書いてあった電話番号に電話をしてみた。残念ながら彼は不在で、奥様と話をした。彼女は私のたどたどしい英語に付き合って、ゆっくり話してくれた。ビスワスさんは、数日後に帰宅すると言う。そうしたらまた電話すると言って受話器を置いた。メールアドレスが書いてあったので、翻訳ソフトを使いながらメールを打つ。そうして書きながら、40年前のことが昨日のことのように思い出された。お正月に来たとき一緒にたこあげをしたこと、庭で卓球をやったこと、彼ひとりで70個も平らげた餃子・・・・。帰国の前日2階から下にまで聞こえるほど号泣したことなどを鮮明に思い出した。私の母を本当の母親のように慕ってくれた証だった。母は涙が止まらないからと空港へは見送りに行かなかった。一緒によく遊びに来たネパールのバルアさん、ユーゴスラビアのデビデさんはどうしているだろう。ユーゴの内戦でどんなになったろうかと、内戦のニュースの時はいつも気にしていたが、彼の現在を調べるすべも無く現在に至っている。ビスワスさんへのメールで彼らの消息を尋ねてみたが、知っているだろうか。
近いうちに私と家族の写真を送ろう。我が家の周りの風景も送ってあげよう。40年前とはずいぶん違っているが、我が家の玄関周りは当時のままだ。きっと喜んでくれるに違いない。もう70歳ぐらいになっているだろうが、彼の写真も見たいものだ。