ひとりごと 2004


5 月


5/31(月)ステーキハウスで 
 今日は友人の児童文学作家Mさんと私の友人の中国の方2名と我が家の長男の五人で食事をした。場所は藤代にあるステーキハウスである。Mさんが中国に人探しに行く計画を進めているので、私の友人を先日ご紹介したのだが、その結果皆目見当のつかなかった人探しにいくらかの光が見えてきた。Mさんはそのお礼に中国人の友人達を昼食に招待したのだった。
 人探しと言うのは、Mさんの義理のお母様が昔中国に子供さんを残してきていて、その子供さんに会いたがっているというので、その子供探しなのである。中国東北部かと思ったら、お母様の住んでいた場所は雲南省だとのこと。お母様はそこの少数民族納西族(ナシ族)の方と結婚していて、その人との間に子供がいたと言うのだ。一番下の子をおぶって仕事をしていたとき、突然中国の役人に捕まって子供を引き離され、そのまま日本に帰国させられたのだと言う。昭和28年のことだったそうだ。そのとき分かれてきた3人の子供さんを捜しているのだ。
 そのことを知った私が龍ヶ崎の大学に留学中のKさんという方を紹介したのだ。Kさんが雲南省の新聞社にメールを送ってくれて、子供探しに協力してくれるよう頼んだところ、快く引き受けてくれたのだそうだ。納西族の人は約28万人ぐらいいて、一つの地域にほぼ固まって生活しているそうなので、見つかる可能性は高いのではないかという気がしている。結婚相手の姓も分かっているので、何とか見つかると良いのだがと思っている。
 私には友人を紹介することぐらいしか出来ないが、そのことで子供探しが進展しつつあるのが嬉しい。Kさんの友人で日本語の上手なTさんにも協力をお願いしている。五人でおいしいステーキを食べながらいろいろな話をして、とても楽しいひとときだった。



5/30(日)日本人ジャーナリストの死 
 遂に恐れていたことが起きてしまった。イラクで取材に当たっていた二人のジャーナリストが襲われて無くなったニュースに愕然としている。私には何も出来ないが、世界に戦争の真実を知らせようとした人の命がけの行動に敬意を表しながら、ご冥福を祈っている。
 ジャーナリストは取材に命をかけると聞くが、本当にそのとおりになってしまった。政府はまた自己責任論をちらつかせているが、こうした人たちの活動なくしては真実の報道が出来ないのだ。あるMLに「拝啓筑紫哲也様」というのがあった。「筑紫氏のような著名なジャーナリストは安全な日本にいて報道しているが、それはこうしたフリージャーナリストたちの命がけの取材の上に成り立っていること、『報道の二重構造』についてをもっと述べて欲しかった、同業者としての連帯感のある発言をして欲しかった」というものである。諸外国ではジャーナリストが戦場の取材で命を落としても、だから取材をやめろとか行った本人が悪いなどという話にはならないそうだ。「自己責任」と言う言葉で全てをくくってしまうような今の日本はどんどんおかしな方向に進んでいるように思う。



5/21(金) 遠い日の思い出&母への思い 
 今朝の犬との散歩のときだ。昨夜の雨で田んぼは水がいっぱいだった。その田んぼにはまだ稲が植えてなくて、いっぱい入った水が小さな波を立てていた。その風景が50年以上も前の、まだ小学校にも入らないころの出来事を思い出させたのだ。
 その日私の家の隣の田んぼは水がいっぱいだった。ちょうど今頃だったかもしれない。田んぼには苗代が出来ていた。当時は今のように箱の中に種をまいて稲の苗を作るのではなく、田んぼの中に苗床を作ってそこに種をまいたのだ。その苗代を見て、私と兄と一郎ちゃん(近所の一つ年上の男の子)は、「海だよ、海!」とはしゃいでいた。海に入って遊ぶことに相談がまとまったのだ。私は意地悪をして、妹に「由利ちゃんは、入っちゃダメだよ。ここは深くて危ないんだから」と言って、妹だけ仲間はずれにした。
 兄達と私の三人は、裸足で苗代に入って、あっちこっち歩き始めた。その時近所のおばちゃんが私たちを見つけて、「こらぁ!苗代に入っちゃだめだよぅ!」と怒鳴ったのだ。私たちは仕方なく海から陸に上がった。そのあとが大変だった。おばちゃんが私の母(養母)にそのことを告げたので、私は洋服の襟首を捕まえられて、そのまま耕作者の家まで連れて行かれた。我が家からは400メートルぐらい離れたところだ。私は母に襟首をつかまれたまま、すごすごとその家に引かれて行ったのだ。そうして「ごめんなさい。」と謝らせられた。兄や一郎ちゃんも一緒だったのだと思うが、二人のことは覚えていない。泣きじゃくりながら謝ったのを覚えている。私に意地悪をされた妹は、海に入らなかったので、無罪放免であった。
 そんなことを思い出しながら、漣の立つ田んぼの脇を歩いていった。当時は戦後のまだ貧しい時代で、多分小貝川の氾濫の翌年あたりなので、この辺の農家の方たちもやっとの思いで苗代を作ったのかもしれないのだが、その大事な大事な苗代を、三人のいたずらっ子たちに荒らされてしまったのだ。相当な痛手だったに違いない。悪気が無かったとはいえ、今思い出しても身の縮む思いがする。その時の母はどんなに困ったことだろう。
 そんなことを思い出しながら歩いていると、突然、無くなった母への思いが心のそこから突き上げてきた。0歳の私を引き取ってから21年余り、可愛がって可愛がって育ててくれた母、私の結婚相手も見ることなく、52歳と言う若さでこの世を去ってしまった母・・・・。母の笑顔が浮かんできて、涙がにじんだ。いつもはロンの行くに任せて、アパートの方から帰ることが多いのだが、涙の滲んだ目をアパートの若い人たちに見られたくなかったので、アパートを避けて裏から帰った。帰るとすぐ、いつもはホットケサマの仏壇にお線香を供え、「お母ちゃん・・・」と小さい声でつぶやいた。



5/16(土) 恐ろしい「戦争の民営化」 
 この頃いくつかのMLで、イラク戦争の一部が民間人によって請け負われているという内容が報じられている。大新聞やTVでは殆ど報道されていないが、このことは大きな問題だろう。このような大規模な民間人の戦争請負はいまだかつて無かったことらしいのだが、今回のイラク戦争によって一気に拡大したようだ。アメリカには、かつて軍に所属していて特殊部隊などの経験のある人物を雇う警備会社がいくつもあるという。そのいくつかがアメリカのイラク戦争で活躍しているのだそうだ。
 ファルージャ虐殺の原因となったアメリカの民間人殺害事件の被害者は、こうした警備会社の社員だったということが判明している。今イラクで戦争に従事するこうした民間会社の契約社員は15000人とも20000人とも言われる。これはイラクに派遣されているイギリス軍に匹敵する。当然のことだが、これら民間人の給料は一般と比べて高く設定されている。年俸が十万ドルから二十万ドルぐらいで、現地では給料の上に高額の日当までつくのだ。それゆえに命を懸けてまで志願する人がいるのだろう。こうした民間人のために支払われるアメリカの税金は莫大なものらしい。
 しかし、それだけの報酬を支払っても、民間人に戦争の一部を委託することはアメリカにとってメリットがあるのだと言う。なぜなら、これら民間人は戦争に関する国際法規を遵守する義務を負わない。それは正規軍ではないからだ。アメリカ軍の増派となれば議会の承認もいるが、これら民間人との契約は議会の承認を必要としない。従って国民に見えない形で増員することが可能なのだ。アブグレイブ刑務所でのイラク人虐待事件にも関わっているという話もあると聞く。
 国際法にも左右されず、国内でも議会の承認を必要としない戦争の民営化、国民の目の届かないところで進んでいくことが恐ろしい。



5/11(火) 人間の本性は 
 ここのところ暗いニュースが続く。日本人人質事件とそれに続くバッシング、アメリカ軍のファルージャ虐殺、米英軍のイラク人虐待、三菱自動車の欠陥隠し・・・・。

 真実の報道を求め、またイラクの子ども達の支援のためにイラク入りした人たちが災難に会って帰って来たというのに、あのバッシングは何だろう。確かに危機に対する準備不足はあったかもしれない。彼らにも反省すべき点はあるだろう。しかし、あれほどのバッシングが起こるというのは、我々の国民性なのだろうか。諸外国でもこのバッシングについてはずいぶん奇異な目で見られたようだ。傷ついて帰って来た人たちを温かく迎え、休ませることが必要だったと思う。そうしてこそ、彼らも自分のとった行動について細かく見つめ直し、問題点をきちんと把握できるのではないだろうか。

 アメリカ軍のファルージャでの行為は到底許されるものではない。罪の無い何百人という人々が殺されたのだ。その中には子ども達も多数含まれている。アメリカの民間人が殺されたから報復したとのことだが、仕返しのために数百人もの虐殺とは!アメリカは基本的にキリスト教の国ではないか。右のほほを打たれたら左のほほを出せというイエスの教えはどこへ行ったのか。私は神を信仰していないが、このような虐殺行為が出来る人間の性が恐ろしい。

 それに続く米英兵のイラク人への虐待。裸にして人間ピラミッドを作る、首に紐をつけて引き回す、眠らせない,、性的嫌がらせをする等々、普通の人間には到底考えもつかない行為だ。それが組織的に行われたようだ。アメリカは兵士個人の責任にしようとしているが、兵士の中には組織的なものだったと証言した人もいるという。ブッシュ大統領も遂に謝罪はしたが、心からの謝罪には見えなかった。捕虜の人間的な取り扱いを決めたジュネーブ条約もあって無きが如しである。

 日本では三菱自動車の欠陥隠し。それが元で亡くなった人もいるというのに、今まで知らん顔を通し、欠陥を隠すのに汲々としてきた大企業のお偉いサンたち。「私は一生かかっても集団で殺人をした彼らを許せないでしょう。」と涙ながらに語っていた被害者に、なんと応えるのか。

 こんなにも暗い世の中。正義はどこへ行ったのかと思うような大人たちの醜い姿。こうした時代に育つ子ども達は何を考えているのだろう。若い人たちの中には大人たちへの不信が渦巻いているのかもしれない。

 それでもなお、人間の本性は醜いばかりではないと信じたい。信ずるに足る大人の存在を示していかなければならないと思う。荒廃したアフガニスタンで、医療援助や地雷の除去に献身的に携わっている方々、荒れた大地に緑を復活させようと頑張っておられる方、国内でも高齢者の福祉や虐待された児童の援助に献身的に尽くしておられる方など、各方面で本当に真剣に取り組んでおられる方がたくさんいらっしゃるのだから。



5/08(土) 星空たんけん 
 以前から計画のあった、谷中子ども文庫主催の「星空たんけん」を実施する。今日で4度目だ。うす雲があって実施は危ぶまれたが、とりあえずやってみようということで、我孫子から星好きの方たちが望遠鏡持参で来てくれた。立派な望遠鏡が4台そろって子ども達の到着を待つ。7時過ぎからボツボツと子ども達が集まってきた。初めての参加者は、望遠鏡の立派さに驚いていた。家庭でよく見かける望遠鏡とは大違いだからだ。
 雲はなかなか取れなかったが、うす雲があっても木星が見えた。初めぼんやりとしているが、じいっと見つめていると、時々雲が切れてはっきり見える。木星の縞模様も見えたと大喜びの子ども達。雲が切れたときには木星の衛星もくっきり見えて、その望遠鏡には人だかりが出来た。パソコンを使ったクイズなどもあって、大きい子ども達はクイズに挑戦していた。参加者の大人たちは、大空の神秘や宇宙の広さに比べて、地球上での争いが小さくばかばかしく見えるなどと話していた。
 せっかくの企画だったが、ニート彗星は見えず、木星以外の星もほとんど見られなかったので、早めに終了となる。今までの3回はとてもよい天気だったが、今日は雲に邪魔されてしまった。これが自然なのだから仕方が無いけれど、ちょっと残念な観望会だった。



5/07(金) ダンス!
 ご近所の方に誘われてダンスの練習に行く。六郷公民館で行われているモダンダンスのサークルで、今日お試し会のようなものがあったので誘われたのだ。高校のダンスの時間が大嫌いだった私が、ダンスの練習に参加するなんて、自分でも驚きだ。お腹の周りや二の腕に付いた有り余る脂肪を何とかしたいという思いで参加してみたのだ。体を動かすことは健康のためにどうしても必要だとわかっていながら、今まで殆ど運動らしい運動をしないできたツケが、有り余る脂肪となってあらわれている。血圧も高くて薬を常用しているし、血管年齢も若くは無い。このあたりで何とかしなければ将来寝たきり・・・・。その恐怖が大嫌いなダンスに挑戦させたようだ。
 ダンスというので身構えていたら、はじめはヨーガのような動きだった。いろいろな動きを一度に教えていただいたので、とても覚え切れなかったが、動かしていると気持ちがいい。左膝を立て、そこに右ひじを当てて体をねじるポーズなどは、問題のお腹周りに良いに違いないと思った。
 ヨーガのような動きが終わると、今度はステップ、いよいよダンスの基礎らしくなってきた。こちらの方はどうも苦手。だって、私の動きときたら、まるで棒がつっぱっているみたいなのだ。先生の軽やかなステップを見ていると、いかにも気持ちよさそうなのだが、自分のは・・・、見るに耐えない有様だ。「風になって」と言われたのだが、私の風はちっとも流れない。以前からやっている人のは大分きれいなのだが。
 もうひとり今日初めての参加者があった。我が家のすぐ近くの方だ。この方も「お腹の脂肪を」などといっておられたが、この方のお腹はスッキリなのだ。余計な脂肪などありはしない。二人で、「動きが多くてついていけないね。」などと言いながらやっていた。
 じんわりと汗がにじんで体があったかくなる。こうして汗をかくのが良いのだそうだ。ステップはどうも好きになれそうも無いが、ヨーガのような動きは気持ちが良い。このまま続けてみたい気もしないではないが、ダンスらしくなってきたらついていけないだろうな、などと考えている。



5/06(木) 夏野菜の苗植え 
 毎年連休中に夏野菜の苗を植える。今年は今日それをやった。まず、苗を買いに行く。トマト30本、ナス10本、キュウリ10本である。トマトは買ったものと家の畑で取れたものでは大違いなので、いつも多めに作る。近所の人や友人におすそ分けをして、「やっぱり取れたてのトマトは味が違うね。」と言われるのが楽しみなのだ。
 畑は既に耕してあったので、穴を掘って植えるだけだった。昨年からトマトの棚を作らないことにしたので、植えるのがずっと簡単になった。夫が農家の人の畑を見てきて、「トマトの棚を作ってない人がいるよ。ただ、トマトの苗の横に棒をたてているだけなんだ。あれで大丈夫ならあの方が簡単でいいんじゃないか。」と言ったので、去年試してみたらそれで十分だった。いつもこの棚つくりは喧嘩の種だったのだ。「ほら、そっちが低いよ、もっと上げろよ。」「ええっ、そっちが曲がってるんじゃないの?」「あーあ、しっかり持ってないから外れちゃったじゃない。」「もっと深く棒を刺さなくちゃだめだよ。」「大丈夫よ。いつもこれくらいでやってるんだから。」などなど・・・。去年からそれが無くなったので、苗植えも平穏なものになった。
 今年トマトを植えた場所は、どうも下の方が固くて、棒がうまく刺さらない。それで、夫が木槌を持ってきて棒の上から叩いて刺した。自分の背丈ほどの棒の上を叩くのだから、これはちょっと大変だったようだ。立てた棒の支えを作って、トマトの苗植えは終わりだ。そのあとナスとキュウリ。ナスは60センチぐらいの棒を支えにした。キュウリには棚を作ったが、10本の苗なので、棚の幅も狭いから、喧嘩もせずに出来た。
 風も無く日差しも穏やかで、苗を植えるには絶好の日だった。最後に水をかけて終わりにする。アパートの前の畑なので、アパートの子供たちがこの作業を見ていた。中には泥水のスープを作って差し入れてくれる子もいる。「おいしいね、またお願い!」などと言いながらスープをご馳走になる。トマトが赤くなったら、この子達にも採らせてやろうかななどと思いながら作業をした。



5/04(火) 再 会 

 もう10年近く前になるが、ウーさん(ウーという漢字は日本には無い)という中国人留学生の家族が我が家に3ヶ月ほど生活していたことがあった。そのウーさんが昨年から半年間研究機関の研究生として東京に来ているので、このゴールデンウィークに家族を呼び寄せたのだ。そして、昨日我が家に遊びに来てくれた。
 我が家に住んでいた当時5歳ぐらいで、小学校入学前だった双子の子供たちウー龍(ウーロン・男)とウー桜(ウーイン・女)は、それぞれ高校1年生になっていた。彼らはウーさんが流通経済大学大学院留学中に生まれた。それで、龍ヶ崎市の龍と、日本の代表的な花の桜から名前を付けたという。一人っ子政策の中国にあって男女の双子ということで、留学生仲間からも大変羨ましがられたものだ。1988年、その子が生まれて少したった頃から、ウーさんと我が家とのお付き合いが始まった。ウーさんはまだ自分の子供を見たことも無く、写真でのみ知っているという状態だった。その二人は体も大きくなって、ウーインは170センチもあると言う。ウーロンももう少しで170センチというところであった。我が家の息子達より背が高い。
 ウーさんの奥さんは劉芳(リュウファン)と言う名前で、10年前もきれいな人だと思ったが、今も変わらず若くて美しかった。おおらかな人柄で、にこにこと笑顔を絶やさない。
 子供たちは10年前のことを少しは覚えていて、庭の芝生に生えているクローバーの中から4つ葉を捜した思い出などを語ってくれた。文庫に住んでいたので、文庫に行って見ると、「昔と同じ匂い」とウーインが言った。そういえば、文庫は独特のにおいがあるように思う。
 午後4時過ぎに到着し、庭で記念写真を撮ったりしてから、犬のロン(名前はウーロンのロンをもらって付けた)を連れて田んぼの方へ散歩に行く。北京のアパート育ちなので、犬を引いての散歩は初めてらしくとても喜んだ。まだ1歳にもならない犬なので、喜んでじゃれ付くとリュウファンがキャァキャァ騒ぐ。ロンはその騒ぎが面白くてなおさら飛びつく。終いにリュウファンはウーさんの陰に隠れて歩いた。子供たちは、犬がときどきオシッコをかけるしぐさが面白いと言って笑った。
 私は前日から腕によりをかけて夕食の準備をしていた。私のもっとも得意とするローストビーフである。父親であるウーさんは喜んでたくさん食べてくれたが、ウーロンはお寿司のほうが良かったらしく、お寿司をパクパク食べていた。まぐろが大好きだと言う。わさびを付けても大丈夫。北京でも時々回転寿司に行くと言っていた。ウーロンは昼食にもお寿司が食べたいといったのだが、「小泉さんの家で夕食にお寿司をとってくれるから我慢しなさい。」と言って、お昼にはお寿司を食べなかったのだそうだ。待っていたお寿司なので、とっても喜んでくれた。
 食事をしながらいろんな話をした。ウーさんは中国で数少ない物流の専門家なので、研究員としての生活中に通産省や郵政公社、経団連などで中国の物流について講演をした話をしてくれた。中国に帰ればとても偉い先生なのだと留学生仲間が言っているが、我が家ではただのウーさんである。彼もそれが気に入っているらしい。私と一回り違いの酉年で、私の弟分なのだ。
 彼らは明日箱根に行って、7日には帰国する予定だ。ウーさん自身も14日には帰国する。また会える日がくることを願いながら9時ごろ帰って行った。



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