ビタペクトを製造しているベルラドの経緯

      フランスのNGO Enfants de Tchernobyl Belarus の Appeal to save Belrad から

                                                  久保田 護

 ミンスクのInstitute of Radiation Safety 放射線安全研究所 Belrad を相手にビタペクトプロジェクトを始めてから4年目になります。ベルラド所長のネステレンコ教授はベラルーシ科学アカデミー核エネルギー研究所の所長でしたが1987年に解職されました。原発から100km以内の住民の急遽退去を主張し世間を騒がすとされたのです。国立の研究所を去り、アンドレイ・サハロフ(水爆の父)の協力を得て1990年にベルラドを創立し、放射能汚染地域に検査センターを370箇所設け、放射線防護法の教育を始めました。

 このセンターは国のチェルノブイリ委員会から資金を得ていましたが、Health Ministry(厚生省)のアトミックロビーAIEA、WHO 同調者の圧力で今も活動しているのは60だけになり、そのうち20は西欧のNGO資金に頼っています。
1990年にネステレンコは国の補助を諦め、フランス、アイルランド、ドイツ、オーストリア、イタリア、スペイン、ノルウェー、英国のNGOに頼み、マイクロバスに載せた体内放射能測定装置を7台入手し、1991年以来35万件の食品と19万人の子供の放射能を測定しました。

 1996年にネステレンコと国立ゴメリ医学研究所のバンダジェフスキー教授は協力し、低レベルのセシウム137でも生体に損傷を与えることを示し、今まで無視されていた放射線発病の予防法の研究を始めました。

 1996年にネステレンコはウクライナ厚生省推奨でセシウム137を吸収するりんごペクチンを服用すると1か月で子供の体内放射能が急減することを確かめ、西側のNGOの資金援助によりベラルーシの7万以上の子供にベルラド製のペクチン製剤を与えました。

 厚生省が以前に検査した45の村の子供の放射能を測定したネステレンコは、政府発表の汚染度は1/6から11/8に低くしてあると1999年4月に発表し、バンダジェフスキーはルカシェンコ大統領に報告書を送り、チェルノブイリ事故による健康被害の研究で国は160億ルーブルを無駄にしていると指摘しました。ところが大統領の命令で彼は7月13日に逮捕投獄されました。

 2000年になって厚生省は医者でないものが医療活動をしていると称してベルラドの体内放射能測定を禁止しました。ネステレンコは承服せず抗告し、測定は医療行為でなく物理的行為であるとの裁定を得ました。バンダジェフスキーの妻はゴメリの研究所を辞め、2002年9月からベルラドで働いています。

 ベルラドの体内放射能測定装置 Screener-3Mはウクライナの Institute of Human Ecology で設計製造したものをドイツ、アイルランド、アメリカ、ノルウェーの慈善団体の資金で購入したものです。

 ベルラドは2001年まで数年間は経常費の半額に当たる年間6万ドルをマッカーサー財団から受けていましたが、ベラルーシとアメリカの政治関係が悪くなり、財団はその金をロシアに回しました。ベルラドは資金難で苦しみ、40人の職員に月給を70%しか払えず、2002年以後には若い職員が4人も辞めざるを得なくなりました。

 わたし達のペクチンプロジェクトは多少なりともベルラドの活動を支え、子供の発病の予防に貢献すると思うのです。他のグループとも協力し、年間100万円を目標にしましょう。


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