
8月21日 成田発 モスクワ経由ミンスクへ(車中泊)
8月22日 ミンスク着 ベルラードで体内放射能測定(ホテル泊)
8月23日 ホルフロボへ
今春来日した子と再会
(サーシャ・ダーシャ・イリューシャ・サーシャ)
8月24日 ボロジンへ 病院訪問 面接
以前来日した子と再会(ナスチャ・イワン・ワジム)
8月25日 ペルシャイへ 面接 廃村へ
以前来日した子と再会(ナスチャ・ビターリ)
8月26日 イベネツへ 面接
以前来日した子と再会
(サーシャ・ジェーニャ・アンドレイ・カーチャ)
8月27日 ミンスク着 ミンスク市内見学 モスクワへ
8月28日 モスクワ着 市内見学(クレムリンほか) 成田へ
8月29日 成田着
滋賀 智仁 西野 泰大 小泉 研 久保田 護
ベラルーシを訪ねて 滋賀 智仁
今年の4月に僕の家に、初めてホームステイでイリューシャとサーシャ達が来た。いつもはかみすわ山荘に行って食事をしたり遊んだりしただけだったが、僕の家に来てくれたので嬉しかった。そして、今回みんなの住むベラルーシに行けることになった。
夜行列車の車窓から外を見てみるともうそこはベラルーシで広い草原がずっと続いた。
アレシカビッチの学校の近くには汚染された場所が有ると聞いたが、その様な場所があるとは信じられない。皆、僕達を歓迎してくれた。
ホルフロボでは、イリューシャとサーシャに会った。二人とも背が大きくなり、おとなしい感じがした。どの家の人たちにも、おいしい物を出してもらったりやさしくしてもらった。
ロジキ村は廃村で全ての家が地面に埋められたけれどリンゴの木が沢山あった。事故のおきる前、村人達は、このリンゴの木をもぎって食べたり農作物がたくさんとれ、皆楽しく住んでいただろうに今はもう住めなくなってしまった。
この地球上にこのような国があることを、僕達は忘れないように、又多くの人々にも知ってほしいと思った。そして僕たちに何が出来るだろうか、考えていくべきだと思う。
僕たちが貰った思い出を大切にし、お返しをしていこうと思う。
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ベラルーシを訪ねて 西野 泰大
今回のベラルーシの旅を通してまず僕が気がついたことは、想像していたよりも治安が良かったことでした。出発前にお母さん達からモスクワやベラルーシ(ミンスク)は危ないと聞いていましたが、そんなことはなく、ミンスクの駅はとても近代的でした。
ベラルーシで出会った人達はみんな笑顔で、たくさんのごちそうで僕達を歓迎してくれました。環境が違っても言葉は違っても心は通じあえると思いました。
また、僕は自分のせいたくさを知りました。ベラルーシの人は放射能で汚染された食物を食べないと生きていけないから食べている。でも、みんなそんな中できちんと大人になり生きている。おふろもあまり入れないけど、工夫して体をきれいにしている。日本のようにいろんな飲み物もないし、食べ物も自分達で育てている。そうしてたくましく強く生きている。そんなみんなを僕は見習いたいと思いました。
ベラルーシのどこまでも続く平原に放牧されていた牛や馬、夜空いっぱいに見えた星、天の川、流れ星を僕は忘れないでしょう。あっという間の十日間だったけど、大きくなったみんなにまた会いたいと思いました。
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転 機 小泉 研
私は記録係として参加したので、写真を主にしてみた。
左の写真はミンスクのホテルからの眺め。まず車が少ないので驚いた。CO2が少ないのだから、チェルノブイリ原発事故が無かったら空気はとても綺麗だったのではないだろうか。
右もホテルからの眺め。首都なのに緑が豊富で、空間にゆとりがあり、心が安らぐ。
今春来日した子供たちとの再会。春に会ったときより少し大きくなっている感じがした。
前列左から、サーシャ、サーシャ、イリューシャ。この時はダーシャはいなかった。後ろの子はイリューシャの妹。恋人にしたい。10年後が楽しみ。
上の写真はペルシャイの近くの廃村。高濃度汚染地区のため、全てのものを土に埋めてしまったとのこと。赤いリンゴの実が忘れられたようになっていた。
今回のベラルーシ行きは、今まで生きてきた21年間の中で経験したことも無いほど大きな意味を持つものだった。何が幸せかという価値観も変わったように思う。
普段は広大な自然の中で元気に遊んでいるため、一見すると何も無いように見える子供たちも、放射能に汚染された食物を摂ることにより、体内被曝を受け続けているのだ。体内に取り込まれた放射能が次第に蓄積されていく事を思うと、なんともやるせない気持ちになる。
今までろくに勉強したことも無い私が、今回の訪問の後、英文で書かれたビタペクトの効果についての論文に目を通してしまった。A4版で10枚もある英文を自ら読む気になったのは自分でも驚きだ。これからは、微力ではあるが私に出来るだけのことを積極的にしていきたいと思っている。
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可愛い子供の顔を見に 久保田 護
出発まで
平成13年1月19日の「救おう会」総会で今年のベラルーシ訪問者を募ったが木梨、寺前など候補者の都合が悪かったので方針を変え、ホームステイ宅の子を連れて行くことにした。小泉研、西野泰大、志賀智仁のうち中学2年の西野と志賀は支援者に対するベラルーシビザ無料発行について大使館で疑義が出たけれど、吉沢さんのおかげで無事に済んだ。
ロシアの通過ビザを1000円で取るためには、出発の1カ月以上前に申請しなければならず、申請には旅券とベラルーシビザ、成田モスクワ往復航空券とモスクワミンスク往復航空券または乗車券の予約証明書を申請書に添えなければならない。ところが乗車券の予約証明書は乗車券と同じく40日以前には発行しない。出発は8月21日だがミンスク発の列車は8月27日なので当日の40日前に乗車券を購入してコピーをFAXで送ってもらっても日立に着くのは7月19日で、20日は休日、21日と22日は土曜と日曜なので1カ月前の申請はできない。それで無料でキャンセルできる航空券を予約し、そのコピーを送って貰ってビザを取り、航空券をキャンセルし、新たに購入した乗車券を釧路に来るユリーさんの奥さんに持参して貰うことにした。
なお最初に予約した航空券ではモスクワ滞在が24時間以上になりホテルの予約証明書が必要で、それには実費を払い込まなければならず、キャンセルしても金は戻らない。それで最初に予約したモスクワ・ミンスク往復の便をその前の便に変更して予約証明を取り、それからキャンセルするという面倒な仕事をユリーさんにして貰った。この手続きには旅券を1カ月大使館に預けておかなければならず、その前に西野はアメリカに行くというので特別措置がとれなくなり、旅券を返して貰い通過ビザ代は1000円でなく7000円になった。なお乗車券の代金は5月にベラルーシに行ったとき概算して190ドル払っておき、8月に不足分14ドルを精算した。
8月21日(火) 曇り
台風が西日本に来ているので心配したが、台風の動きが遅く嵐の前の静けさで雨は少し降ったけれど風はなかった。常陸多賀発7:09の列車に3人が乗り、小泉は藤代でなく取手で乗車し我孫子で落ち合う。西野の荷物が一番大きい。10:50にチェックイン、出国したら志賀が時計を落としたと言う。出国口からは戻れないので事務窓口に旅券を預けて別な入口から戻り、落ちていた時計を拾って来た。12:00の搭乗には時間があるのでH.I.Sに貰ったサービス券でジュースなどを飲んだら、西野と志賀はさらに食事をする。西野は機内食を食べられないのだそうだ。
20分遅れで飛び出し、モスクワのシェレメチェボ空港に17:50着。ロシア人のためのCUSTOMS DECLARATIONの記入に時間がかかった。私は申告した所持金9,249ドルを全部かぞえられ、菊池さんからナスチャへの手紙は開かれてしまった。吉沢さんからユリーさんへの手紙にはドルが入っていたらしかったが、うまく引っ込めて開封を免れた。他の3人は額が少ないので簡単にパス。
ゲートを出たら顔見知りのプロコフィエフさんが待っていた。帰りの航空券をリコンファームをして貰い、20ドルだけ560ロシアルーブルに交換した。先ずモスクワの港を見学し赤の広場を歩いて無名戦士の墓からクレムリンの裏手を歩き、新しい地下店舗を眺めてからベラルスキー駅に発車20分前に着く。4人一室のコンパートメントで西野と志賀が上、久保田と小泉が下になる。定時の22:27に音もなく発車。これで安心する。お茶のほかに車内弁当が出た。
8月22日(水) 曇り
6時に目覚めたがまだ暗い。3人とも良く寝ている。明るくなり切符には7:28着となっているので下車の準備を始めたが様子がおかしい。車掌に尋ねたら8:28と紙に書いてくれた。ミンスク駅にユリーさんと運転手のシャシコフさんが待っていた。ユビレイヤナホテルに直行しチェックインする。今年からホテル代をドルで払えなくなったのでルーブルに交換する。1ドルが1445ルーブルなので1ルーブルは0.08536円になる。ホテル代を支払い朝食は一人4500ルーブルのバイキング。
一休みしてからベルラードへ。資料を貰い、契約書にサインし、体内放射能を測定して貰う。セシウムは全員ゼロだったがカリウム不足でないのは久保田だけ。それから銀行に行きベルラードの口座に7,560ドル(千葉4,960 横浜1,126 日立1,474)を払い込む。終わってアレシコビッチに向けて出発。途中でアイスクリームを10個買って分ける。2時間近くかかって14時半にデミトロビッチ村に着き放射能を測定したが特に高いことはない。まもなくアレシカビッチの学校に着く。 ↓アレシカビッチの学校で
女の校長さんが出迎えてプレゼントのハンケチと麦藁細工を渡され、校長室で話を聞く。学校の規模はホルフロボと同程度で校長は学校を出たらここに着任するように命ぜられたとのこと。校地は高汚染でないが近くに汚染地があり、そこから生徒が通ってくる。国内保養はしたが回数は少なく、国外保養はしていない。雨が降って来たので村の中を歩くのは取り止め、集まった父兄や子供たち13名に見送られて帰途に着く。ユビレイヤナホテルに戻り、ホテルの外で夕食を取り、ユリーさんと別れる。夕方はスーパーを見て歩いただけ。ホテルでシャワーを使って休む。電話はかかって来なかった。
8月23日 晴れ
7時に起きて8時から朝食を取り9時にチェックアウトし出発。10時半にホルフロボの学校に着く。ゾーヤ先生夫妻とイリューシャの父が出迎えてくれた。学校は夏休みで人気がない。今日も暑く半袖を持って来なかったことを後悔する。みんなでマラジェーチナの遊園地に行く。水平に回っている椅子の回転面が次第に傾いて70度ぐらいの上下回転になって行く装置が面白かった。遊園地の後ろにはレーニンの銅像。イリューシャの父が娘を子供用回転車に載せたがる。
ホルフロボに戻り、隣の村の池のほとりの林に集まって遊ぶ。泳ぐ者もいる。松ぼっくりのぶっつけっこ、サッカーなどをする。持って行った百円のビーチボールが役立った。それから輪になって食事、帰りはコルホーズのバスで送って貰った。
村の中と学校と幼稚園の周りを案内して貰う。途中で会ったダーシャにビーチボールを進呈した。幼稚園の庭でダーシャの妹がこのボールで遊んでいるのを見てよかったと思う。
私はゾーヤ先生の家、小泉はサーシャの家、西野と志賀はイリューシャの家に分宿となる。サーシャの家に遊びに行き、スビェータと両親に会い、林で遊んでいるビデオを見る。スビェータの保養先の中城さんに見せてくれとテープを渡された。ゾーヤさんの家に戻り、日本の英語の教科書を2冊進呈し1年用の英語教科書を2冊貰う。ロシア教育省認定とベラルーシ教育省認定のもので、ロシアの方が使い易いとのことだった。
再会 ホルフロボの学校の前で
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8月24日(金) 晴れ
8時50分にゾーヤさんの家を出て学校に集まる。途中大祖国戦争の戦死者の記念碑と教会がある。
体内放射能排除用にベルラードで購入してきたビタペクトが校長室に置いてあったが写真を撮るのを忘れた。ゾーヤさんの英語の教室には中小路小学校が送ったサーシャとダーシャを囲む写真に折り紙をつけた紙が貼ってあった。
ホルフロボからボロジンまでは40分程度。学校に着いたが校長はドイツに行っていて留守。新学期が迫ってボロジン郡の教員集会があるそうで大勢の先生が集まっており、ニーナさんのご主人も居た。ナスチャとイワンが現れる。
ボロジンから北海道の余市に行く6人の面接はペルシャイと言う名の国営食堂で行った。食堂の女主人の子も余市に行く。面接のさいの筆記役の志賀を小泉が応援する。
面接が終わってその場で食事してから病院に行き、5月に払い込んだ金で買ったプルスオキシメータの使用状態と購入した医薬品の写真を撮る。メータは少女のベッドで使用中で医薬品は半分ほど使った残りだった。
←寄贈したプルスオキシメータを使う少女
↓ボロジン病院に寄贈した医薬品
病院に勤めているイワンの母とイワンに会う。病院を出て川辺の林の中に小屋があるところでイワンとナスチャのほか余市グループの女の子6名が一緒に遊ぶ。志賀は川で泳いだ。食事が済んでボロジンに帰り私はナスチャの家に泊まる。小泉はイワンの家、西野と志賀はワジムの家に泊まった。ナスチャの母は勤めていて留守。ミーシャにテニスボール2個とビーチボールを渡す。テレビを一緒に見ていて眠くなり床をとって貰う。夕食は9時からねと言われ、10時からと言って寝てしまい、目が覚めたのは夜中の1時だった。
8月25日(土) 晴れ
昨夜は夕食を取らずに朝まで寝ていて朝食は米のお粥。朝になって初めてナスチャのお母さんと顔を合わす。例年と同じ宿泊費25ドルに加えてナスチャが10月に結婚するお祝いとして50ドル出したらナスチャのお母さんとナスチャにキスされた。ナスチャの結婚相手はネスビッジ市のコニカに勤めている23歳の背の高い男だそうだ。
学校に10時集合のはずだったがみんな遅れて来る。揃ったところでペルシャイのリハビリセンターに向かう。センターに着き、ペルシャイから哲多に来る男子2名女子2名の面接をする。ペルシャイのナスチャはすらりとした綺麗な娘になった。バイクで来たビターリも大きくなった。
車でコジキ村に行く。家が6軒あった場所に今は一軒もない。残っていた一軒も火事で無くなったのだそうだ。現在の放射能は0.24μSv/h程度。廃村に夏草が茂り、赤いリンゴがなっていた。今日も川辺でバーベキュー。バラノフスキーにウオッカを攻められ、地面に零したりして懸命に防戦する。
今夜はイベネツの森林監督官長イェスマンさんの家に4人とも泊めて貰う。私は2回目。養老で保養したビクトル君はさらに大きくなった。牛3頭、豚3頭、がちょう10羽、にわとり多数の家で私も牛の乳を搾ってみたがうまくいかない。庭で遊んだのちにロシア式のバンニャ(サウナ)でいいかげん蒸され木の葉で叩かれた。夕食では私一人が乾杯の相手をさせられる。子供たちは広場で火を焚いてサッカーなどで遊び、帰宅したのは午前3時だった。私は午前2時に参ってしまい部屋の隅のベッドにもぐりこんだが夜中にトイレに行こうとしてスイッチを探すのに広い部屋の中を手さぐりで歩き回り苦労した。
8月26日(日) 晴れ
10時出発の予定だったが何かと遅れて10時半にイベネツに向かい、11時過ぎに学校に着く。校長と話をしてから養老に来る女子4人の面接をし、それから会食。同姓同名の子がいた。4人ともニーナ先生の家に泊めて貰うことになり、荷物を置いてサーシャ、ジェーニャ、アンドレイ、カーチャと林に行き遊ぶ。
それから文化会館での若い家族のコンテストを観たが、言葉が判らないので面白くない。5家族が質問に答えて演技し数名の採点者が5点満点で点を出す。30代の家族がこんなことをやっていることに日本とベラルーシの生活の差を感じた。客として上段に招かれる。質問で感想は?、答え「言葉が判らない」、日本の子守歌は?、「今はない」、子供が泣いたらどうするか?、「ほっておけば泣き止む」と。「ねんねんころりよおころりよ」を歌おうかと思ったが止めてしまった。
夜8時からのカソリック教会の礼拝式に出る。日曜の午後はポーランド語、夜はベラルーシ語でするそうだ。ニーナさんの家に戻り4人が4つのベッドで寝る。ニーナさんの息子のパソコンで志賀はゲームに熱中する。家の内外の放射能を測定するとペチカの中だけが高く0.11μSv/h程度。夜遅く小泉と西野と一緒に星を見る。北斗七星とカシオペアが上下に全部見え、天の川が綺麗だった。
8月27日(月) 晴れ
10時半にニーナさんと別れ、ミンスクへ行く途中でベラルーシの古い家の博物館に寄ってからハチンへ。ベラルーシの人口の1/4が戦争で死んだ記念の設備を見てミンスクに入り、昼食に各種のサラダとピザと飲み物を取り5人で39,980ルーブル(3,413円)。広場の安売り露店は月曜が休みなので土産品を買うのはデパートになる。ドルをルーブルに交換するのに時間がかかった。レジャーランドに行き、西野と志賀はホラー室に入りジェットコースターに乗る。夕食を取り、金の精算をし、ミンスク駅へ。21:42の列車に乗るとき外国人登録証を見せないで済んだ。行きと帰りで乗車賃が違うけれど車内弁当とお茶のサービスは前と同じだった。
8月28日(火) 晴れ
9時3分にモスクワのベラルスキー駅に着く。やっと涼しくなった。1号車の前にダーシャさんが待っていたので安心する。ダーシャさんは日本に15回来たことがあり、2年間いたこともあるそうだ。
モスクワ大学の前の雀が丘で展望し、街を回ってクレムリンに入る。ウスペンスキー寺院、ブラゴベシチェンスキー寺院、アルハンゲリスキー寺院だけ内部を見る。何の行事か判らないが偉い神父の行列と集会がありテレビが撮られていた。入口から出て駐車場までクレムリンを半周りする。アルバート通りを歩いたのちに西野のサッカーシューズを買おうと運動具店を数軒回ったが、5千円程度の質の良いのは寸法が26cm以上で、小さいのは安物になり結局適当なのがなかった。
シェレメチェボ空港には16時に着いてしまい時間が余った。ダーシャさんからお土産のお返しとして琥珀細工を貰う。出国のときは何も調べられなかった。ダーシャさんの話では1,500ドル以上の所持者でなければフリーパスなのだそうだ。手を振ってダーシャさんに別れを告げ、15番の搭乗口へ。定時発で機中泊となる。
8月29日(水) 晴れ
成田空港に志賀さんが出迎えてくれた。小泉夫妻も来たので別れてそれぞれ帰宅。多賀の家の前に西野さんが車で待っており、旅行はこれで無事終了。
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